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国家社会主義ドイツ労働者党党歌
ホルスト・ヴェッセルの歌
Horst-Wessel-Lied

別題(冒頭句):旗を高く掲げよ!(Die Fahne hoch!)
分類:党歌(Partei-Hymne)、突撃隊闘争歌(SA-Kampflied)
発表:1929

作詞:ホルスト・ヴェッセル(Horst Wessel)
作曲:不詳

[訳文・解説] [詳細解説] [原典・楽譜]

ナチス党歌「ホルスト・ヴェッセルの歌」
詳細解説

1.ホルスト・ヴェッセルについて

1.1 突撃隊入隊まで

 「ホルスト・ヴェッセルの歌」は、突撃隊員ホルスト・ヴェッセルにより作詞されました。

 ヴェッセルは1907109[1]、ヴェストファーレンのビーレフェルト(Bielefeld)に生れます。父ルードヴィヒはルター派の牧師で、のちベルリンの聖ニコライ教会に赴任するに伴い、ヴェッセルも家族と共にベルリンへ移住することになりました。この聖ニコライ教会はベルリン最古の大刹で、家庭はたいへん裕福だったといいます。

 第一次大戦に際してはヒンデンブルク元帥の参謀本部の教戒師ともなっている[3]父ルードヴィヒは国粋的な思想の持ち主でもあり、これがヴェッセルに大きな影響を与えたと考えられています。父はヴェッセルが15歳の時に死去していますが、その遺志を承けるかたちで、ヴェッセルは若くして右派的な準軍事組織であるビスマルク団やエーアハルトのヴィーキング同盟に参加し、闘争に身を挺していきます。

 1926年にベルリン大学法学部に進学した後も、ヴェッセルは学問よりも政治運動に力を入れていきました。なお弟ヴェルナー(のちSA入隊)、妹インゲボルクも共に大学に進学している事からも、ヴェッセル家には多額の資産があった事が伺われるでしょう。

 ヴェッセルは思案の結果、自分の活躍の場所をナチ党に見出します。19261217[4]、彼はナチの突撃隊に入隊しました。当時19歳。

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1.2 優秀な突撃隊員

 ヴェッセルは先ずベルリンの第4連隊の第1中隊に配属されました。彼はそこで演説や組織力で頭角をあらわし、1929年には同中隊の第54小隊の隊長に任ぜられます。更にこの部隊を大規模に再編した手腕を買われ、同じ1929年に早くも同小隊は第4連隊の第5中隊へと格上げされ、彼もまた中隊長へと昇進しました。[5]

 彼がこれほどはやく昇進したのは、ベルリンで大きな勢力を持っていた共産党の武装組織「赤色戦線闘士同盟」から多くの人材を引き抜いたからだといわれています。また、大学生という特権階級でありながら労働層への理解が深かった事も隊員獲得に寄与しました。事実、隊長となった第5中隊の管轄エリアもベルリンでプロレタリアの多かったフリードリヒスハインでした。

 彼の人柄については次のような記述があります。「あらゆる党の記録、日記、文章がひとつの結論へと辿り着かせる。すなわち、ホルスト・ヴェッセルが仲間たちに愛されていた、ということだ。」[6] 当時ベルリンの大管区指導者であったゲッベルスの日記でも、ヴェッセルの功績が高く評価されています。彼は紛れもなく将来を嘱望された党員だった訳です。

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<脚注>

[1] ホルストの生誕日については諸説あるが、妹インゲボルクの記述や墓碑銘の写真からして109日に間違いないようである。詳細は次を参照。池田、『虚構のナチズム』、363頁。
[2] ちなみに、この聖ニコライ教会は第二次大戦で損壊し現在は博物館になっています。
[3] Baird, p.635.
[4]
池田、前掲書、133頁。
[5] 同書、133-134頁。
[6] Baird, p636.

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2.詩と曲の成り立ち

2.1 作詞の経緯

 このように優秀な闘士としてキャリアを積み上げていたヴェッセルは、音楽の重要性にも目をつけており、赤色戦線に倣って音楽隊を隊長を務める第5中隊に設立しました[7]。また幾つか闘争歌も手がけています。その代表がのちに党歌にまでなる「旗を高く掲げよ」(Die Fahne hoch)です。

 ヴェッセルがこの歌を作詞したのは1929年の3[8]といわれます。ただし当初の歌詞は現在知られているものとは多少異なっており、例えば「Bald flattern Hitlerfahnen / Über allen Straßen」の箇所が、「Bald flattern Hitlerfahnen / Über allen Barrikaden」などとなっています。より街頭での闘争を念頭においた歌だったといえるでしょう。

 19298月の党大会では、ヒトラー隣席のもとこの闘争歌が演奏されるという栄誉にもヴェッセルは与っています[9]

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2.2 曲の起源問題

 作詞の一方で、ヴェッセルが使用した旋律の起源は何かという問題がすでに1930年ごろから出ていました[10]。当時のレコードでも「民謡」や「ホルスト・ヴェッセル作曲」とするものもあり、ナチ当局がすでに混乱していたことがわかります。

 1935年に英国で書かれた論文には次のような記述が見られます。「私はこの歌の起源を辿ろうと試みているが、いまだ成功していない。或る熱狂的な突撃隊員がいうには、その起源はブランデンブルク地方の民謡らしいのだが。また、ダンツィヒ地方が歌の起源だという話も聞いている。」[11]

 このように昔から錯綜している問題なので多くの説が存在しています。 一説に、共産主義団体、特に赤色戦線の歌を盗用したというものがあります。しかし戦後になって唱えられだしたこの説は、いくつかの証拠から有り得ないと結論付けられています[12]

 その他、1807年にエティアンヌ・メユールというフランス人によってつくられた歌劇『エジプトのジョセフ』の中の一曲「冒険者」(Der Abenteurer)から借用したという説、1890年代につくられた「偉大なる哉、汝が業」(How Great Thou Art)という曲の旋律だという説もあります。

 しかし現在有力な説は、巡洋艦ケーニヒスベルクの乗組員の間で歌われていた「ケーニヒスベルクの歌」(Vorbei, vorbei sind all die schoenen Stunden)が起源だという説です。ヴェッセルがこの歌を知っていたという第5中隊隊員の証言もある他、歌詞の一部が「旗を高く掲げよ」に影響を与えていると指摘されています[13]

 確かに部分的に歌詞が似ており、これをヴェッセルが替え歌にしたという説は説得力があります。

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<脚注>

[7] 池田、『ドイツの運命』、492頁。
[8] Roth, S.223. なお、Broderickは印刷物として確認できるのは同年9月が最古であるという(p.9)。しかし、8月の党大会で演奏されている事を鑑みると、3月ごろには完成していたと見てもよいだろう。
[9] Baird, p.637.
[10] Broderick, p.15.
[11] Saunders, p.52.
[12] Broderick, pp.17ff.
[13] ibid, p.15-17.

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3.ヴェッセル死後の普及〜第三帝国時代

3.1 ヴェッセルの死と党歌昇格

 ヴェッセルは1930114日、共産党員のアルブレヒト・ヘーラーの銃撃を受けて40日もの間生死の狭間を彷徨った末、223日、23歳で死亡します。 

 当時ヴェッセルはエルナ・イェーニケ(Erna Jaenicke)という売春婦と同棲しており、襲撃されたのはそのエルナの部屋だったということで、共産党からは女をめぐるいざこざで死亡したとネガティブキャンペーンが張られました。しかし、殺害の原因は、共産党から大量の人材を引き抜いたヴェッセルに対する同党の報復という説が有力です。

 ともあれ、ベルリン大管区の指導者であったゲッベルスは、この襲撃事件で死亡したヴェッセルをナチの殉教者として祭り上げることを計画します。ゲッベルスの発行する『デア・アングリフ』のほか、党機関紙『フェルキッシャー・ベオバハター』でもホルスト・ヴェッセルの特集を組み、それにあわせて「旗を高く揚げよ」の詩も掲載しました。その結果、優秀とはいえ一介の突撃隊員に過ぎなかったヴェッセルは衆人の知るところとなり、そして彼の書いた「旗を高く揚げよ」もまた、脚光を浴びる事となったのでした。

 なお、『デア・アングリフ』では「Die Fahne Hoch!」が題名とされ、『フェルキッシャー・ベオバハター』では「Horst-Wessel-Lied」が題名にされていました。おそらく、この際に「旗を高く揚げよ」が「ホルスト・ヴェッセルの歌」(Horst-Wessel-Lied)とも呼称されるようになったのでしょう。ヴェッセルはほかにも複数の闘争歌をつくっていますから。

 この1930年は前年の世界恐慌の影響でドイツ国内も不況の嵐が吹き荒れ、その後押しでナチスが第二党に躍進した年でもありました。またこの頃、二篇の詩(Sei mir gegruesst/ Die Fahne senkt)が「ホルスト・ヴェッセルの歌」に追加されていますが、作詞者は不明です[15]

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3.2 第三帝国時代

 19331月、ヒトラーは首相に就任。ナチスが政権を掌握します。同年、「ホルスト・ヴェッセルの歌」は「第二国歌」になります[14]。また、バイエルンでは国歌とあわせて「ホルスト・ヴェッセルの歌」を歌うように、学校に通知がなされています。

 翌1934年には「長いナイフの夜」による粛清、またヒンデンブルク大統領死去にともない、ヒトラーが総統に就任、独裁が完成します。「ホルスト・ヴェッセルの歌」の地位も単に一政党の党歌から、ますますその地位を高めていくことになります。

 この間ナチス政権下、ドイツは目覚しい発展を遂げていきます。「ホルスト・ヴェッセルの歌」には、英仏露西その他各国語の訳がありますが、おそらくこの時期につくられたものだと推測されます。またそれと同時に、これを揶揄するための替え歌も盛んに作られました。時期はやや後となりますが、1943年に米国でつくられたディズニー映画主題歌「Der Fuehrer's Face」の旋律もこの曲が元となっています。

 1939年にはヒトラーが「国歌は荘重な歌としてゆっくりと演奏し、ホルスト・ヴェッセルの歌は革命闘争歌として速いテンポで演奏せよ」と命令。

 また1940年にはドイツ国歌の1番を歌った後、「ホルスト・ヴェッセルの歌」を歌うよう公式に通達が出され、ここにその地位は極まったといっていいでしょう。

[14] Roth, p.105.
[15] Broderick, p.10.

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4.戦後の扱い

4.1 敗戦と規制

 1945年5月、ドイツは連合国に降伏。連合軍は国歌「世界に冠たる我がドイツ」と共にこの「ホルスト・ヴェッセルの歌」の演奏を禁止します。

 その後、西独では刑法86条a項、いわゆる「反ナチ法」によって一連のナチ関連の歌や記号が規制される中、当然「ホルスト・ヴェッセルの歌」も処罰対象となります。もちろん研究で調べたり、耳にしたりするのは問題ありませんが、街路で歌ったりするなどした場合逮捕されます。この規制は東西統一後の現代でも続いており、『わが闘争』や『意志の勝利』などと並んで、この歌がナチの象徴のひとつとなっていることがわかります。

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4.2 その他

 ドイツとは直接関係ないですが、2005年にカナダの「ロイヤル・カナディアン・レギオン」社が自社の宝籤のコマーシャルの背景曲に「ホルスト・ヴェッセルの歌」を知らずに用い、非難を浴びたという事件がありました。CM製作者にナチオタでもいたのでしょうか。2005年といえば、支那の幼稚園で知らずに「軍艦行進曲」を流していたなんて事件がありましたが、大戦は遥か遠くの出来事となってきているようです。

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<文献表>

・池田浩士 『ドイツの運命 ドイツ・ナチズム文学集成1』 柏書房、2001年。
・池田浩士 『虚構のナチズム―「第三帝国」と表現文化』 人文書院、2004年。
Baird, Jay W. "Goebbels, Horst Wessel and the Myth of Resurrection and Return" in Journal of Contemporary History, Vol.17(1982) pp.633-650.
Broderick, George "Das Horst-Wessel-Lied" in International Folkslore Review Vol.10(1995) ed. Venetia Newall. pp.100-127.
Roth, Alfred Das nationalsozialistische Massenlied: Untersuchungen zur Genese, Ideologie und Funktion Würzburg: Koenigshausen & Neumann, 1993.
Saunders, William "Songs of the German Revolution" in Oxford Journals Humanities Music and Letters Vol.16(1935) pp.50-57.

 いかは副次的ですが、参考にしました。

ドイツ語のWikipedia
英語のWikipedia

 それにしても、ウィキペディアで「ホルスト・ヴェッセルの歌」の項目があるのは「英語」「ドイツ語」「オランダ語」「スウェーデン語」、そして「日本語」とは。日本語の解説は一番貧弱ですが。

皇紀266595日作成
1116日追補
2008725日更新

 

[訳文・解説] [詳細解説] [原典・楽譜]

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