我等は鉤十字の部隊 |
作詞:クレオ:プレイアー(Kleo Pleyer) |
音源 |
mp3 |
| 1. 我等は鉤十字の部隊だ。 この紅の旗を高く掲げよ。 我らはドイツの労働の為に 自由への道を切り開かん。 |
1. Wir sind das Heer vom Hakenkreuz, Hebt hoch die roten Fahnen! |: Der deutschen Arbeit wollen wir Den Weg zur Freiheit bahnen! :| |
| 2. 我等は赤匪や仏蘭西奴と 友誼を結ぶ事は断じてない。 ドイツ民族の自由を 汚した者と結ぶ事はないのだ。 |
2. Wir schließen keinen Bruderpakt Mit Roten und mit Welschen, |: Und allen, die den Freiheitsbrief Des deutsche Volkes fälschen. :| |
| 3. 我等は圧制を敷く者と 結ぶ事は断じてない。 たとえ奴らが幾たび 苦難の淵に我らを縛り付けようと。 |
3. Wir schließen keinen Bruderpakt Mit unseren Tyrannen |: Und mögen sie uns hundertmal Ins tiefste Elend bannen. :| |
| 4. 我等は臆病で卑怯な者と 結ぶ事は断じてない。 欧州に蔓延る下劣さを 拭い去ることが重要なのだ。 |
4. Wir schließen keinen Bruderpakt Mit bangen, feigen Wichten, |: Es gilt die große Niedertracht Europas zu vernichten. :| |
| 5. 我等は鉤十字の部隊だ。 この紅の旗を高く掲げよ。 我らはドイツの労働の為に 自由への道を切り開かん。 |
5. Wir sind das Heer vom Hakenkreuz, Hebt hoch die roten Fahnen! |: Der deutschen Arbeit wollen wir Den Weg zur Freiheit bahnen! :| |
<備考> |
[1.曲について] - 【作詞の経緯】 1922年、プラハ大学でユダヤ人の歴史学者サムエル・シュタインヘルツ(Samuel Steinherz)が学長に選出されました。これに対し、以前からユダヤ人学長に反対していた国家社会主義学生同盟は猛反発し、学生ストライキを実施することにします。 このストライキを指導したのが、同大学の学生でプラハの学生同盟指導者でもあったクレオ・プレイアーでした。同1922年のクリスマス前にストライキは実行に移され、その際にプレイアーが作詞したこの闘争歌がナチ学生の間で大いに歌われました。 曲は「Stimmt an mit hellem, frohen Klang」という民謡のものを流用。プレイアーがあとから歌詞をつけるかたちで出来上がったものです。題名は「Wir sind das Heer vom Hakenkreuz」(我等は鉤十字の部隊)の他、「Kampflied der Nationalsozialisten」(国家社会主義者の闘争歌)としている資料もあります。 - 【ドイツ全土へ普及】 この闘争歌はプラハだけにとどまらず、ナチの拠点であったミュンヒェンを介してドイツ全土に広まり、各地のSAなどによって愛唱されました。 1927年には、ゴットフリート・フェーダーの著した『ナチ党綱領』(Das Programm der NSDAP)の巻末にこの闘争歌の1番が引用されるまでになっています。それほど、ナチにとっては重要な歌のひとつだったということでしょう。 - 【作詞者について】 作詞者クレオ・プレイアーは、1898年11月19日、当時ハプスブルク朝領であったエガーラントに、鍛冶屋の父と農民の母の子として生まれました。エガーラントは、のちズデーテンラントの一部としてドイツに併合された地域です。つまり、プレイアーのようなドイツ人が多く入植していた地域だったわけです。 第一次世界大戦が勃発すると、プレイアーも17歳へ兵役につき、ウクライナや北イタリアを転戦、敢闘メダルを受賞する戦功をおさめます。1918年に重症を負うものの生還、そのまま終戦を迎えました。 戦後は他のドイツの若者がそうであったように政治運動に関与するようになり、1920年にズデーテン・ナチ党に参加、青年運動の指導者となります。この闘争歌を作詞した1922年時点ではプラハ大学の学生で、スラブ学、ドイツ学、哲学を専攻していました。そして翌1923年から1933年までは、トゥーレ協会が設立母体となったオーベルラント義勇軍にも参加しています。 彼はその反ユダヤ主義的活動によって投獄されることもありましたが、のち博士号を取得し、1926年からはベルリンに移住、1936年時点ではベルリン大学の講師をしています。その後については現在調査中です。おそらくナチの後援で大学講師になっていたものと思われますので戦後は教職を追放されたのではないでしょうか。 - <参考文献> - [2.訳について] - [3.音源情報] 皇紀2665年7月18日更新 |