トップページ日本の軍歌

国民歌
アッツ島血戦勇士顕彰国民歌

陸軍省報道部推薦歌曲朝日新聞社撰定
1943

作詞:裏巽久信
作曲:山田耕筰

[歌詞・備考] [原典・楽譜]

<収録>
軍歌・戦時歌謡大全集6/戦時歌謡4) 戦前録音
軍歌メモリアル) 戦後録音

1.
刃も凍る北海の
御楯と立ちて二千余士
精鋭こぞるアツツ島
山崎大佐指揮を執る

【山崎大佐】・・・山崎保代(やまさき・やすよ)。死後二階級特進して中将。
2.
時これ五月十二日
暁こむる霧深く
突如と襲ふ敵二万
南に邀へ北に撃つ
【敵二万】・・・「敵は特殊優秀装備の約2万にして」(大本営発表)。米上陸部隊の実数は約1万。
【南に邀へ北に撃つ】・・・凡そ正しい戦況。
3.
陸海敵の猛攻に
わが反撃は火を吐けど
巨弾は落ちて地を抉り
山容ために改まる
 
4.
血戦死闘十八夜
烈々の士気天を衝き
敵六千は屠れども
吾また多く喪へり
【敵六千は屠れども】・・・「与へたる損害6千を下らず」(大本営発表)。実際は約3千。
5.
火砲はすべて摧け飛び
僅かに銃剣、手(て)榴弾
寄せ来る敵と相搏ちて
血汐は花と雪に染む
 
6.
一兵の援、一弾の
補給を乞はず敵情を
電波に託す二千キロ
波頭に映る星寒し
【補給を乞はず】・・・「山崎部隊長は只の一度でも一兵の増援も要求したことがない、又一発の弾薬の補給をも願はない」(矢萩陸軍報道部長の放送)。実際は幾度も弾薬や兵員を要求しているが、実施されなかった。
7.
折柄拝す大御言
生死問はぬ益良雄が
ただ感激の涙呑む
降りしく敵の弾丸の中
 
8.
他に策なきにあらねども
武名はやはか穢すべき
傷病兵は自決して
魂魄ともに戦へり
【他に策なきに...】・・・「他に策無きにあらざるも、武人の最後を汚さんことを恐る」(山崎大佐打電文)
【傷病兵は自決して】・・・「軽傷者は自身自ら処理せしめ、重傷者は軍医をして処理せしむ。」(打電文)
【魂魄ともに...】・・・「英魂とともに突撃せん」(打電文)
9.
残れる勇士百有余
遥かに皇居伏し拝み
敢然鬨と諸共に
敵主力へと玉砕す
【皇居伏し拝み】・・・「最後の攻撃決行前に於て、将に皇居を拝して大元帥陛下の万歳を奉唱し」(矢萩陸軍報道部長の放送)。
【玉砕】・・・軍歌の中で「玉砕」が使われる事は之がはじめではない。もと『北斉書』。
10.
ああ皇軍の神髄に
久遠の大義生かしたる
忠魂のあとうけ継ぎて
撃ちてし止まむ醜の仇
【皇軍の神髄】・・・「皇軍の神髄を発揮せんと決意し」(大本営発表)
【撃ちてし止まむ】・・・戦時下のスローガン。もと神武記紀。

 

<備考>

[曲について]
 1943(昭和18)年の529日、山崎保代大佐(死後中将)率いるアッツ島守備隊2500名余は、圧倒的な火力を持つ米軍1万の猛攻の前に壊滅しました。大本営は530日、この敗北を「玉砕」と美化して盛大に発表。これが以後各地の敗戦を玉砕と潤色する発端となります。

-

【公募の経緯】 この山崎部隊の玉砕を受け、玉砕賛美と戦意高揚と目的として幾つかの歌謡が製作されました。その中で現在もっとも有名になっているのが、朝日新聞社が企画したこの「アッツ島血戦勇士顕彰国民歌」です。(他には、ビクターの「軍歌戦時歌謡大全集」に収められている「壮烈山崎軍神部隊」(勝承夫作詞、東辰三作曲)、「アッツ島二千の忠烈」(佐々木信綱作詞、堀内敬三作曲)など)

 朝日新聞では531日の玉砕報道の直後、陸軍省後援のもと63日に「アッツ島山崎部隊勇士記念国民歌募集」として、歌詞の公募を発表します。その記事には、

 「アッツ島に壮烈鬼神を哭かしむる最後の突撃を敢行、玉砕した山崎部隊長以下二千数百勇士の血戦に一億国民の血涙感謝を捧げその青史不朽の武勲と赫々たる皇軍精神を永く後世に伝ふべき、記念国民歌を左記により広く募集する。」

 「厳粛、荘重、雄渾なる大国民歌たるべき事。特に在来の平凡なる修辞法にとらはれず、真に国民的感激と米英撃滅の熱情をこめた日本的の国民叙事詩たる事を望む。」

 などといった内容が見えます。

-

【審査について】 審査に当たったのは、次の面々。

 陸軍省から報道局長の矢萩那華雄少将(審査委員長)、堀田中佐、山ノ内大尉。山口陸軍軍楽隊隊長。情報局から井上司文芸課長、井上清芸能課長。矢部放送協会業務局長。山田耕筰。百田宗治。

 審査の結果、630日に入選一篇と佳作二篇が選ばれ、79日に歌詞が、同10日に曲がそれぞれ紙面で発表されました。

-

【歌詞について】 9日の記事によると、題名がこの時「アッツ島血戦勇士顕彰国民歌」となったということ、矢萩少将が歌詞に手を加えているということがわかります。

 入選作品の作詞者・裏巽(うらたつみ)[1]久信は兵庫県立伊丹高等女学校の地歴教諭。記事には、「大楠公の一族和田正遠の後裔だけにその体内には吉野朝以来伝統の忠誠の血が脈うつてゐる」という胡散臭い記述もあります。公募軍歌の作詞者はたいてい学校の教師か公務員ですが、この歌もその例に漏れないものでした。

 なお同日の記事には、佳作の第一席が「少国民歌」として作曲されることも発表されています。佳作の歌詞については711日の記事に出ています。第一席の「少国民歌」の作詞者、加藤朝春は帰還兵。

 大村菊枝の手になる佳作第二席は以下のとおり(2番のみ掲載)。

1.
故国を遠く二千粁
北海の果アッツ島
晴れると見るや霙降り
烈風狂ひ冷湿の
島に日の丸立ててより
我守備隊は厳然と
重き任務に尽したり

2.
恨は深し霧の朝
憎しや敵の大軍は
孤島を囲み攻め寄せぬ
守るはわづか二千人
数は二万を越えしとぞ
二旬にわたる激戦は
鬼神もいかで泣かざらん

 これを見ると、たしかに入選作品の方が優れていますね。明治の軍歌に似たつくりの歌詞だと思います。昭和ではやや冗長でしょう。

-

【旋律について】 作曲に当たったのは審査員でもあった山田耕筰で、翌10日に楽譜つきで公開されています。いわく、曲は荘重に剛毅と憤怒の感情をこめ、平易で覚え易く、一億国民老若男女が国民的感激をこめて唱和するにふさはしい旋律である」とのこと。

 また、9月午後3時からニッチクレコード(コロムビア)で、山田耕筰指揮のもと同曲が吹き込まれたという情報も出ています。この音源は現在市販のCDで耳にすることができます。当時のレコードのB面には、「少国民歌」が吹き込まれました。

 全10番ですが、SPレコードの都合上、一部が省略されています。省略された部分は大体、日本軍がやられる内容です。おそらく、カットする部分についても何らかの検討があったのでしょう。

-

【発表大演奏会】 朝日新聞は公募軍歌を普及させる為、これまでも大体の場合、無料の演奏会を開催してきています。今回も同様に、演奏会が開催されました。日時は717日午後5時で、場所は日比谷公会堂。

 「顕彰国民歌」だけではなく、「同少国民歌」、「ますらをの道」、「山本元帥の歌」、「海ゆかば」、「愛国行進曲」、「大東亜戦争陸軍の歌」、「大東亜戦争海軍の歌」なども演奏されたようです。朝日新聞のかかわった歌の多いところが面白いところです。

 たいへん面倒見の良いことに、「顕彰国民歌」については伊藤武雄による歌唱指導もあったとか。

-

【その他】 公募軍歌についてはいつも東京日々・大阪毎日の両新聞の後塵を拝してきた朝日新聞は、よほどこの軍歌に気合を入れていたらしく、演奏会のあとも陸軍省報道部推薦のもと「アッツ島血戦勇士顕彰国民歌皆歌運動」を実施したり、楽譜を無料を配布したりしています。

 おかげで、他の山崎部隊の歌にくらべて格段に有名となりました。

 歌とは直接関係ないものの、ドイツのデーニッツ海軍元帥にアッツ島玉砕の感想を求めている記事さえあります。デーニッツ元帥のリップサービスが泣けます。

-

<脚注>
[1]
作詞者の苗字には、東巽や真巽など諸説ある。長田暁二 『日本軍歌大全集』 全音楽譜出版社、 1998年、124-125頁では、両方の名前が挙げられていて統一されていない。ここでは朝日新聞の記事およびJASRACの権利者情報に拠って、「裏巽」とした。

-

[歌詞の出典について]
 歌詞については、当然ですが当時大本営が発表した報道を鵜呑みにしたものなので、史実とは異なる箇所が多々あります。また、歌詞の文言自体も大本営発表からの引用があまた見られるものです。

 以下に大本営発表を転載しておきます。

大本営発表(昭和1853017時)

1、「アッツ」島守備部隊は512日以来、極めて困難なる状況下寡兵よく優勢なる敵に対し血戦継続中の処、同29日夜敵主力部隊に対し最後の鉄槌を下し皇軍の神髄を発揮せんと決意し、全力を挙げて壮烈なる攻撃を敢行せり。爾後通信全く杜絶全員玉砕せるものと認む。傷病者にして攻撃に参加し得ざるものは之に先ち悉く自決せり。我が守備部隊2千数百名にして部隊長は陸軍大佐山崎保代なり。敵は特殊優秀装備の約2万にして528日までに与へたる損害6千を下らず。

2、「キスカ」島はこれを確保しあり

-

<参考文献>
読んでびっくり朝日新聞の太平洋戦争記事 当時の紙面をそのまま掲載。
アッツ島玉砕戦―われ凍土(ツンドラ)の下に埋もれ アッツ島戦記。

 

[歌詞・備考] [原典・楽譜]

日本の軍歌日本軍歌補完庫「あ行」

「西洋軍歌蒐集館」玄関に戻る