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2666年3月25日 「白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々」 感想

 先日「白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々」を見てきました。「白薔薇」といっても某お嬢様校の話ではなくて、ナチ関連です、ナチ。(何)

 まあ正確にはナチっていうと問題かも。内容はドイツ国内で反ナチ活動をしていた女学生ゾフィー・ショルが、ゲシュタポに逮捕されて処刑されるまでを描いたものです。ゲシュタポの取調べにも民族裁判(何故か字幕では「人民裁判」でしたが)にも怯まずに、ナチの非人道行為を非難して自由を希求しつつもゾフィーは断頭台の露と消えてゆきます。基本的にゾフィーと他の人間との会話が中心ですが、迫真の演技で飽きさせません。万人向けの娯楽映画ではありませんが、ナチ時代に関心を持っている方なら一見の価値ありかと。

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 以下はいつものどうでもいい個人的な感想。

 優れた映画ですが、ひとつ看取する必要があるのはゾフィーと観客との間の「距離」でしょう。ゾフィーは視点人物なので観客は彼女に半ば感情移入して本作を鑑賞するわけですけども、この時に「違和感」を感じとれるかどうかが焦点だと思います。

 つまり、理想に生きて死んだ曇りなきゾフィー(「白バラ」は組織の名前であると同時に彼女の暗喩ととってよいでしょう)と、そういった生き方とは凡そ無縁な平凡なる観客との間の距離。この「距離」こそがゾフィーへの完全なる同化を妨げ、「違和感」を生むわけです。

 「白バラ」は美しくも気高い。しかし我々観客からは余りにも遠い。観客はむしろ、ゾフィーの周囲にいたナチ体制に微妙に疑問を抱きつつも、自らの職務を執行せざるをえない人物たち(たとえばゲシュタポの取調べ官)に近いのではないでしょうか。

 それ故、ゾフィーの姿に高尚さを覚えても、そしてそれを否定するのではないとしても、彼女と自らの立場との間にある「距離」を感じざるを得ません。またこういった「違和感」は少しばかりはもっていたいものです。というのも、単にゾフィーに同化して「自由万歳、ナチに死を」とこの現代社会で叫んでみたところで、それはただ小学生にもいえるような幼稚な結論にしかならないですから。

 私にとって本作は、「白バラ」の美しさを見ると同時に、逆に自らの「汚さ」やそれゆえの困難さにも気付いた映画でした。

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 ・・・それにしても、第三帝国時代とはいえ罪人収容施設って結構待遇よかったようで。日本の監獄なんて未だに日光すら入らない部屋がザラだそうですから。

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関連文献
白バラの祈り―ゾフィー・ショル、最期の日々 オリジナル・シナリオ
白バラは散らず 改訳版―ドイツの良心ショル兄妹